シンデレラストーリーになるまで

信じていれば夢は叶う。

母とその後①

 とても久しぶりの投稿になってしまいましたが、引き続き母の話をします。

 

 母にはもう2度と会えないのだと思っていましたが、それ以降は周囲の人の協力で定期的に会ったり文通したりすることができていました。

 

 母が家を出て行ってから初めて会ったのは、当時好きだった男の子の家でした。突然好きな男の子に家に来るように言われて遊びに行くと、母親と再会できた、という感じです。男の子のお母さんが気を利かせてくれたようでした。当時は男の子に「母さんが呼んでるから。」と誘われ、なんだろうと、当日までとてもドキドキしていたなあ…。笑

 

 他に、母が家を出る前から月に1度、母と共に通っていた場所がありました。それは、幼馴染の男の子のおばあちゃんの家です。そのおばあちゃんは、母の親友のお母さんという関係でした。(全部ややこしくてすみません。笑)

 幼馴染のおばあちゃんの家は私の足で行ける場所にあったので、定期的に遊びに行き、時間を合わせて母も来る形で会っていました。また、幼馴染の男の子が母からの預かり物を学校で渡してくれた事も何度かありました。中身は当時交換日記をしていたので、その日記や、今でも忘れない…袋の中に生理用パンツが入っていたときもありました。笑(思わず「中見てないよね!?」と確認してしまったな…笑)

 今思えばその幼馴染くんもよくやってくれてたなあ…。気まずそうだった…。小学校4年生の頃なんて男子が女子がって言い合いになる時期だっただろうに…。

 

 母が家を出てからは、周囲の大人がとても気を遣ってくれたのを覚えています。近くに住んでいる友達の家に遊びに行っても、友達のお母さんが

「お母さん出て行ったって聞いたけど、大丈夫…?」

と心配してくれました。正直、大丈夫ではなかったけれど、なんだかんだでそれまで通り過ごしている自分がいました。特に、外では何事もなかったかのように元気で笑顔でいました。やはりそれは、以前話した憧れの主人公がいたからでしょうか。その頃にはもう既に、どんなに辛い状況でも笑っている自分が形成されていたのもあると思います。

 

 学校でもそれまでと変わらず笑顔で過ごしていましたが、母が担任の先生に連絡をしてくれたらしく、担任の先生も私の様子を丁寧に見てくれました。

 友達には特に何も言わずにいました。仲のいい女友達は知らず、一部の男子には知られているという謎の関係性を、特別に感じたことも多々ありました。笑(結局恋仲になることはなかった。なんでだ。)

 

 でも、夜になると思い出すのかなんなのか、考えが止まらなくなり、眠れない夜が多くなりました。小学生なのに朝まで本を読んでいたなんて事もどんどん増えていきました。今思えば環境の変化による影響もあったと思います。

 

 

 今日登場してきた人たちは、現在はあまり関わりがないのですが、今でもとても大切な存在です。当時の自分のことを思い出すと、やはりみんな私の救世主だったなと思います。

 

 その後も、私の人生にはたくさんの救世主が出現していたので、またお話していきたいですね。

 

 

母②

 突然ですが、私の初経は小学4年生の夏の終わり頃に来ました。始めは受け入れられず、怪我をしたのだと本気で思っていましたが、母は生理用品などを私に貸し、生理について教えてくれました。前にも書きましたが、あの頃の母は本当に母親らしく、大好きでした。

 

 そんな母との別れは突然やって来ました。11月の初めの頃です。私が習い事から帰って来た、日が落ちる頃のことでした。

 いつも通り「ただいま〜。」と言って玄関に入ると、居間から怒鳴り声が聞こえて来ました。「最悪だ…また喧嘩しているのか…。」と思いながらすぐに自分の部屋に向かいました。帰宅後早々こんな思いさせられたら、帰りたくもなくなりますよね。

 小学校4年生にもなったので、こういうときは静かに自分の部屋で身を潜めている方が安全だと、もう分かっていました。時々気になって、自分の部屋の床に耳を当てて何で喧嘩をしているのか聞き耳を立てていました。その時は、本当に何についての喧嘩だったか分からなかったのですが、いつも通りの喧嘩だと変に日常だと思い切っている自分がいました。まあそれまでもそうだったわけですから、仕方のないことなんですけど。

 しかし、この後いつもとは違ったことが起きました。

「出ていけ!!!」

 父親の怒声が聞こえてきます。この言葉もよく聞いてきました。でもなんだか今回は違う空気がして、自分の心臓の音がどんどん大きく聞こえてきました。なんだろう、この不安感は。私は行く末を不安に思いながらも、部屋から一歩も出られませんでした。

 その後も怒声は続き、その後少し静かになりました。そして、誰かが子供部屋の方へ歩いてくる音が聞こえました。階段を上がると、私の部屋の前に兄の部屋があるのですが、母が兄に何やら話しているようでした。しばらくすると兄の部屋から大きな泣き声が聞こえて来ました。私は不思議と空気を察しました。そして母が私の部屋のドアをノックしました。

「あちゃ…ごめんね…お母さん出ていくわ…。」

「なんで。」

「お父さんもう何言ってもダメみたい…お母さんが出ていかないと落ち着かないわ。」

 

 隣の部屋からは兄の泣き叫ぶ声。なのに、私は涙が出てきませんでした。そんな私を見た母が、最後に私に言った言葉を私は忘れません。

 母は、私を抱きしめ、

「お兄ちゃんのこと、よろしくね。」

 そう言って階段を降りて行きました。私は、何も考えられずにいました。

 そして、出ていく準備を済ませた母が最後の別れを言いに来たので、最後まで見送ろうと思い、一緒に玄関を出ました。「このまま一緒に連れて行ってくれたらいいのに…。」ふわふわとそんなことを思いました。しかし、その後ろを追うようにして、父が来ていました。父は気持ちの悪いくらい静かで落ち着いていました。いつもなら父のことが気になったかもしれませんが、この時ばかりは母の乗った車が出ていくことを目で追うことしかできませんでした。

 母の車が出て行った後、私と父は無言で家の中に戻りました。

 小学校4年生。もう何事もなくやり過ごすような対処法も身につけてはいたけれど、今思えば母親が出て行ってこんなにも冷静でいられた自分が不思議で仕方ないです。でも、父親を責める、泣いて喚く、そんなこと想像したことすらなかったのでできませんでした。ただ静かに自分の部屋に戻ることしかできない私でした。

 

 この日から、母のいない生活が始まりました。冒頭にも書きましたが、ちょうど体にも成長が現れてきたときのことです。家には祖母がいましたが、時代の違いもあり理解されないことも多かったです。とても生きづらかった…。

 

母①

 今回は母との話がメインです。

 

 小学生の頃、私は母が大好きでした。母は毎日のように父からの怒声を浴びながらも、私たちの前では立派な母でした。弱音を吐くこともなく、涙を見せることもなく、いつも冷静に私たちを守ってくれていました。

 しかし、今思えばそんな母も大丈夫だったわけがないのです。思い返せば、さまざまな逃げ方をしていたのだと、今は分かります。

 

 ある時は、子供部屋。

 ある時は、友達の家。

 ある時は、実家。

 

 そうでもしないと、おかしくなりそうだったのでしょう。

 

 今でも覚えているのが、みんな同じ家にいるのに、別世界で過ごしているかのような時がありました。

 実家には2階が2つあり、1つは両親の部屋、もう1つは子供部屋になっていました。子供部屋は私が小さい頃は使っていなかったと思うのですが、父とうまくいっていない時に母はその部屋を使って、私たち兄弟も一緒にそこで寝ていました。

 今思えば、「どんな状況よ!」とつっこみたくなるのですが…。でも私は、そこで母と過ごす穏やかな時間が好きでした。部屋の電気を消して、スタンドライトの光の中で本を読んでもらったり、ぬいぐるみで遊んでもらったり、母が作る手芸を見ていたり…。ホッとするような時間でした。その時間がぶち壊される瞬間もありました。突然したから父の怒声が聞こえてくるのです。

「どこに逃げてる!」

「そんなところに隠れやがって!」

 なんと怖い言葉。鬼か何かなんでしょうか。笑 穏やかな世界がぶち壊される瞬間が、一番辛かった…。

 

 また、時々母は「家を出る」と私たちに伝えてくることがありました。その度に私は、金輪際この家には帰ってこないかのような気持ちで、家出る準備をしていました。不思議と嫌だという気持ちはありませんでした。小学生のときにする家出の準備って、面白いですよね。何を準備したかって、お気に入りのぬいぐるみや、お気に入りのレターセットとか、非実用的なものばかりでした。笑 きっと小学校の友達に会えなくなるかもしれないから…という気持ちだったのでしょう。こんな時から、何度もそんな思いをしていたんだな…と悲しくなります。

 

 でもいつも結局、母のもとに父からの怖い電話がかかってきて、引き戻されていました。

 

 友達の家に逃げたこともありましたが、小学生の私にとってはとても楽しいひとときでした。友達のお母さんも、理解してくれて、かくまってくれていました。今思えば本当にすごいこと…感謝しかないです。

 

 「家以外にいたい」「家以外の方が落ち着く」

 当時はそんな気持ちでした。家が落ち着く場所だなんて、思えるようになったのは実家を出た後のことです。

 

 母は静かな場所で落ち着けると、決まって私たちに話をしました。いろんな話をしてくれたと思いますが、決まっていうことがありました。

 

「きっとお父さんは何かに取り憑かれているんだよ。」

 

 当時は私も本気でそう思っていました。いや、今でも少し思うかもしれません。でも、今ならまた違う視点で思うことがあります。母はよほど弱っていたのだと。

 

 そう思うひとつに、母はよく、おまじないの唱え方やお守りを肌身離さず持つことを教えてきました。当時は何も分からずに聞いて、それを真似していましたが、大人になって考えてみたらあれは一種の宗教だったのでしょう。

 いつからやらなくなったかは忘れましたが、私は母と離れることになった後でも、そのおまじないを呪文のように唱えていました。

 不安になった時、困った時、怖い時、助けてほしい時…。

 

 私も何かにすがりたくて仕方がなかったのでしょう。

 

私とよさこい-再会-

 よさこいを始めて約半年が経ち、大きなお祭りがありました。今回は、そのお祭りで小学生の頃所属していたチーム(以降チームSと言うことにします。)のリーダーと再会した話をします。

 

 チームSが現在も活動していることを知っていましたが、実家の地域のチームということもあり、入ることはしませんでした。(実家にいる父とはよくない形で絶縁したため。)また、大人になった今、自分自身で見つけたチーム(現在所属の、以降チームNと言うことにします。)で新たに始めたいという気持ちもありました。

 

 新しくチームNに所属した際に、小学生の時によさこい経験があること、そして無念にもやめさせられてしまったことなどを話していました。その際、長年よさこいをしている人(以降Pさんと呼びます。)に、前所属していたチーム名を聞かれたので伝えると、昔からチームSのリーダーと交流があったようで、今の私のことをチームSのリーダーに話してくれていたそうです。私はというと、なんだか気まずい気持ちがあり、何度かお祭りで見かけても声をかけに行くことはできないでいました。

でも、やはり演舞は気になり、大きなお祭りがあった際にチームSの演舞を観ていました。すると、Pさんが声をかけにきました。

「この前Y(チームSのリーダー)に会ってね、あちゃのことを話したんよ。そしたら「親父がちょっと大変な子やろ〜」って言ってたわ笑 覚えてたよ。」

※このYさんは、「私とよさこい②」に出てくるリーダーとは違う方ですが、同じようによくしてくれた方です。「私とよさこい②」に出てくるリーダーさんはもうおられませんでした。

「私、お祭りで会ってもどんな顔して会えばいいか分からなくて、全然声かけることできなくて…。」

「あいつはそんなの気にしてないよ!別のチームだろうと、どこかでよさこい続けてくれてたらいいなって思ってるタイプだから!」

 

と、Pさんは教えてくれました。「覚えている」そのことが衝撃的で、嬉しくて、私は驚きながら涙が溢れてきました。15年も前のことなのに…たくさんの人が所属したりやめたりしていっているだろうに…父親のことまで覚えているなんて。(それほど衝撃的な父だったのかもしれない。笑)これまで半年間見かけても声をかける勇気が出ませんでしたが、この演舞が終わったら声をかけようと決意しました。

 

そして声をかけた際

「Yさん!」

「あー!!!あちゃー!!!久しぶりだね。元気にしてた?よさこい続けてるって聞いて嬉しかったよ〜!」

「すみません、私なかなか声かけられず…。小学生のとかの方がとても無念で…。」

「全然気にしてないよー!あんたが元気によさこい続けてくれてることが嬉しいわあ!」

 

 子供の時は、引っ込み思案だったため、直接こんなに思いを伝えるようなことはできませんでした。当時はできなかった会話をすることができ、思いを伝えることができ、感極まって涙が止まりませんでした。

 その後、当時の友達のお母さんにも会い、懐かしの再会を楽しみました。

 

 あの時、チームSとは辛い別れで終わってしまったけれど、またこうして良い形で再会できたことがとても嬉しかったです。やめた時に抱きしめてくれたリーダーの方はいなかったのですが、またどこかの機会に会えたらな、と思います。その時は、自分の思いをしっかり伝えたいですね。

 

 今後も「私とよさこい」は続いていきますが、ブログの記事は一旦ここで終了です。辛い過去のを吹き飛ばすように、笑顔で楽しく踊っていきます!

 

私とよさこい③

※前回の続きです。

 

 でも、そんな私が最近になってまた新たによさこいと出会いました。

 苦い過去で終わってしまっている私は、それ以来よさこいから離れていたのですが、去年、久しぶりに観たいなとお祭りに行った際、どうしてもしたいと思ってしまったのです。正直、大学生時代にも思うことはありましたが、金銭的にも時間的にも難しいだろうと思って行動できませんでした。祭りを観た時も、仕事がかなりハードなため、できないかなと思っていました。でも、止められない思いは自分を突き動かすんですね。私はメンバー募集サイトやYouTubeを見て、曲や踊りや衣装を見て自分が気になるチームを調べました。練習に行けそうな場所や内容かも。

 そして、奇跡的に住んでいる近くで活動をしていて、踊りや衣装、コンセプトも気に入ったチームに出会いました。その後、勇気を出してメッセージを送り、体験に行き、今とても楽しくよさこいをやっています。

 誰かに辞めさせられる心配もない。また辛い別れをしなくていい。そして、新たにとても楽しく素敵な仲間たちとも出会えました。忙しい日々の中での活動ですが、今の私の大きな楽しみとなっています。

 

 結果的に、父に言われた通りになっているようですが、私は父の言葉の通りに生きたとは思いません。今でも父があの時私に言った言葉は、間違っていると思っています。現在視点でも言いたいことがたくさん出てくる。

 

子供の頃にする経験って大事だったのに。

あの瞬間、あの頃にしか感じられないものがそこに合ったのに。

自分が親になったら絶対子供の権利を奪うようなことしたくない。

 

 私が今、新たによさこいと出会い楽しく活動できているのは、父の言葉ではなく、紛れもなく自分の行動力があってこそだと言いたいです。社会人になった忙しさの中「できない」と思ったのは本心なので、その殻を破って行動しようとした自分の力あってこそだと。「私とよさこい」をあんな最悪な記憶で終わらせたくないという強い思いがあったからだと。

 

 この世には、私のように、親にさまざまな権利を虐げられてきた人がたくさんいると思います。でも、「また新しく始められるのかな」「こんな風にも生きられるのかな」と思える一例となれたら嬉しいです。(疑問系でいいです。やろうと思っても気持ち的に難しいことがあるのも分かるので…。)

 

 …と、そんなこんなで、これからの「私とよさこい」がスタートしました。

 今後、「私とよさこい」を語る上で、父との間で起きた最悪な記憶なんてちっぽけだと思うくらいに、これからを楽しんでいきたいです。

 

 

 

 長かった「私とよさこい」の話ですが、最後におまけ回を書こうと思います。それは、最近のお祭りで、小学生の頃所属していたチームの人と再会し、話せた時のお話です。心温まり、涙が我慢できなかったのでぜひ読んでくださると嬉しいです。

 

私とよさこい②

※前回の続きです。当時私は小学生だったので何が起きていたのかははっきり分かりませんでしたし、今でも知らないままのこともあると思います。そのため、周りの空気を察して感じ取ったことと、後日母が教えてくれた内容を合わせて分かったことだけですが話していきます。

 

 父の「よさこいやめろ」という要求が始まりましたが、すぐにやめたわけではありませんでした。なんだかんだでふわふわと流してしばらく続けていました。よさこいの練習は週に1回夜の時間に行われていたのですが、父は仕事の都合上その時間にはもう就寝していたので、こっそり行けないことはなかったのです。しかし、やめたという事実がない以上、母は永遠に責められていたのでしょう。毎日のように夫婦喧嘩になってました。そんな時に母に言われた言葉を覚えています。

「やめたくないならそうお父さんに言われ。」

言えるならとっくにそうしてる。

「ちょっと勇気出してさ。」

その勇気が出ない。

「せめて学習発表会だけでも出たいって言ってみたら…?」(母にはよさこいに憧れ始めたきっかけである学習発表会のステージのことを泣きながら話していました。)

そんなこと、怖くて言えない。

 わざわざ学校に行き、校長に会って「なぜ学習発表会でよさこいの演舞があるのだ!それなら野球クラブなども見せ場がいるだろう!」という旨のクレームをつけに行ったと聞いていたからです。(父が自分で自慢げに語っていた気がする…「言ってやったぜ!」みたいな感じで。頭おかしい。)

 今考えても信じられない。恥ずかしい。父は頭に血が上ると多方面に怒りを撒き散らす節がありました。キレたあの人に、何を言っても無駄なのです。

 

 母は、子供がやりたいことはできるだけさせてあげたいという考えをもってました。今思えば、闘ってくれていたのだと思います。それでも、怒鳴る父に萎縮し、立ち向かう勇気のない私。意見を言うことが全くできない子に育っていました。

 

 結局、闘うことに疲れてしまった母に連れられ、私はよさこいの練習に、最後の挨拶を行くために向かいました。

 体育館に入り、母が事情を説明し、リーダーが私のもとへ来ました。あまりにも不本意すぎる結果に、顔を上げることができず、ただただ涙が溢れてきました。そんな私を、リーダーは抱きしめてこう言いました。

「ごめんな!なんもしてあげられなくて!やめたくないよなあ!」

 女性で、親くらいの歳の人で、テンションが高い人だったので、当時は怖いというイメージだったのですが、その温かさにさらに涙が溢れました。

 やめたくなかった。本当にやめたくなかった。憧れのステージに立ちたかった。全校のみんなの前で踊りたかった。

 今思い出してもその当時の感情が込み上げてきて、苦しくなります。

 

 よさこいをやめた私に、父の放った言葉を、私は15年経った今でも忘れません。

よさこいなんていつでもできる。お前がどうしてもやりたいと思うなら、大人になってから好きなだけやればいい。」

 

??

かっこよく決めたつもり?何それ?

当時は泣いて頷くことしかできなかった私ですが、心には爆発しそうなくらいの思いでいっぱいでした。

 

違う。私がよさこいを始めたのはもうすぐある学習発表会を観て憧れたからだ。憧れのステージなんだ。来月あるのに。それは大人になってからできることではない。

今このメンバーとできるのは今しかないのに。

学校外で仲良くなった友達とも会えなくなってしまう。せっかく仲良くなったのに。

 

 …と、そんなこんなで、小学校中学年の頃、私とよさこいは、ここで終わってしまいました。

 

 

 

 

(何やら悲しいところで終わりましたが、次もあるので読んでいただけたら嬉しいです。)

私とよさこい①

 みなさんは「よさこい」をご存知ですか?お祭りの際に鳴子という音の出る道具を持って華やかな衣装に身を包み、曲に合わせて踊り盛り上げるのですが、私は大人になった今、チームに所属してよさこいを楽しんでいます。でも実は初めてよさこいと出会ったのは、最近ではなく、小学生の頃でした。

 今回はその「よさこい」と小学生の頃の私の話をしていきます。

 

 私がよさこいに興味をもったのは、小学校中学年の頃でした。校区のチームがあり、当時仲が良かった友達もそのチームで踊っていました。また、小学校の学習発表会のプログラムにも入っていて、いつもは自分と同じ一般人だと思っていた人たちが、華やかに踊る姿にとても感動し、憧れをもちました。どんな形で始めることになったかは思い出せないのですが、私もしたい!と思った結果、私はチームに入ることになりました。

 学校外の友達も増え、小さい子や年上の先輩たち、大人とも仲良くなれる環境でした。当時はただ楽しいと思ってやっていましたが、今思えば、「性に合っていた」んだと思います。

 

 よさこいの本番は夏。

 地域や校区のお祭りに出れば、知っている友達が観てくれる嬉しさ。大きなお祭りに行けば多くの人が観てくれる喜びと、みんなで賞を目指す楽しさがありました。その時、母はサポーターとして携わってくれました。父も地域の行事に参加することが好きな人だったので、私がそこで踊っていることを喜んでくれているように見えました。しかし、遠征して踊りに行くこともあり、夜遅くに帰宅することもありました。日付を超えたことも1度だったか、あったと思います。後から思えば、その頃から父はその活動形式をあまりよく思ってはいなかったのでしょう。

 

 夏が終わり、忙しさのピークは過ぎました。そして次はいよいよ秋の学習発表会に向けて。その時は子供達だけで踊るので、立ち位置決めも始まっていたのでしょう。先輩の女の子が

「お母さんたちが話してたけど、学習発表会の立ち位置、あちゃは前の方かも。頑張ってるし!」

と言われました。嬉しかった。認められたこと。憧れのステージでかっこよく踊る自分の姿を想像し、胸が高鳴っていました。

 

 そんな時、事件は起こりました。父親です。子供を夜遅くまで祭りに参加させるというやり方が気に食わないと思ってた父は、何かのきっかけでよさこいのリーダーに会い、物申したのでしょう。一悶着合ったと聞きました。それ以降、そのリーダーに対しての怒りが消えず、何もかも気に食わなくなった父は、私によさこいをやめることを要求してきました。部屋に呼び出されて一言。

「お前、よさこいやめろ。」

 意味が分かりませんでした。でも、私には父に反抗する勇気なんてありません。不機嫌な父に言葉を返すことすらできない子でした。その場をどう切り抜いたか覚えていないのですが、無言でただ頷くことしかできなかったと思います。

 

 

 

(長くなり過ぎたので、いくつかに分けて投稿します。)